あれから5年「好きな街」

今週のお題「好きな街」

仙台の人間ですがあの日は所用で東京のホテルにおりました。

てっきり東京での地震かと思うくらい東京でも大きな揺れを感じました。

都内も交通がマヒ。

安全確保のためエレベーターが止まってしまい、その日はそのままホテルの部屋から一歩も出ませんでした。

そして仙台に帰るはずだった翌日、仙台に帰れません。

 使う予定だった新幹線は停止、仙台空港津波に、かろうじて山形空港への便は出ていたようでしたが、すぐに席が埋まってしまう状況でした。

同行していた父は仕事柄、何はともあれ仙台に戻らなければならないという状況でしたので山形行きを羽田でひたすら待つことになりました。

しかし私はその数日後にも関東に再び赴かなければいけないかもしれないという状況だったので、結局、その日は関東への交通手段が確保できる九州の親戚の家に身を寄せました。

東北に帰るどころか九州まで飛んだのです。

その時点で、家族の無事はおおむね分かってはいたのですが、いろいろな思いが募ったのと、ホッと一息ついたのとで飛行機の中でグズグズと泣いてしまったのを覚えています。

 

九州にも津波警報が出ていて、改めて地震の大きさを実感しました。

津波のニュースを散々見せられてしまったのでしょう、幼い親戚はもうニュースは嫌だと言って、ケーブルテレビでアニメをずっと見ていました。

親戚はとても気遣ってくれて、九州にいる間は上げ膳据え膳の状態でぼんやりと家に帰るのを待っているだけで済みました。

 

それから数日後、ようやく家に帰れました。

山形空港経由。小さい空港がフル回転。とても混雑していました。

仙台の中でも山形よりの我が家は、物が倒れた程度で幸い生活に困るような被害はありませんでした。

ただ、私が帰るころには復旧してはいましたが何日間か停電を経験し、水はまだ止まっていました。

集会所に来てくれる給水車に水を貰いに行ったり、コンビニに食料が入荷したと聞いたら家族の分を買いに走ったり、パン屋が営業を再開したので行列に並んだり、雪を溶かしてトイレなどの生活用水にあてようとしてみたり、目まぐるしい非日常的な生活が続きました。

 

そうしてさらに数日後、二、三の野暮用を済ませる必要があったので仙台駅周辺に車で向かいました。

意外と街はいつもどおりでした。

人が少ない感じはあったし、水も交通機関も止まっていて、お店の品ぞろえも渋かったけれど、生活を送ろうとする街の姿がそこにはありました。

いろいろな人の頑張りで、生活が正常化されていこうとしているのがわかりました。

そのとき済ました野暮用で撮った証明写真の自分の顔はわりと穏やかで、わたしにとっては奇跡の一枚と呼んでもいいくらい気に入っている一枚だったりします。

断水でろくに顔も洗えずものもらいになりかけの頃の写真でもです。

 

あれから5年といいますが、あんまり実感がありません。

特にあの年はとても寒くて、3月の後半にも雪が残っていました。

それに対して今年はほとんど雪を見ないので(3月11日(金)の夕方すこしちらちら舞っていましたが)、今と同じ頃の出来事というのがなおさら信じがたいのです。

私はもうとっくに支援していただく立場を脱しています。

普通の日常を送ることができています。

自分にできることが何があるのか、考えれば考えるほどわからなくなる問題です。

私の住む好きな街での平和な生活がどれほど多くの人の力で成り立っているのか、それだけは忘れずにいたいと思います。

 

山形空港は震災直後はどんな感じだったのかなと気になって検索したら2016年3月10日の記事がありました。

あのときは、ありがとうございます。

本当に助かりました。

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